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デュアルキャリアに励む
「社員」に触れて――
株式会社矢口製作所 代表取締役社長
川名 一嘉 さん

矢口製作所は、埼玉県所沢市に拠点を置き、特装トラック部品の設計・加工・組立をおこなうモノづくり企業です。
社員数は約50名と、規模でカテゴライズするなら「中小」企業ということになりますが、現在、オリンピック出場を目指すアルペンスキー選手・松本達希氏を正社員として採用し、『デュアルキャリア』をバックアップしています。その理由と現状について、お話を伺いました。

モノづくり企業とアルペンスキーヤーの融合

モノづくり企業とアルペンスキーヤーの融合

―『デュアルキャリア』について伺う前にまず、矢口製作所がどんな会社なのか、お話し頂けますか?

端的に言ってしまえば、私たちは特殊なクルマの「歯車」を作っている会社です。
タンクローリー用のポンプ、クレーン車のウインチなど、特装トラックと呼ばれる車に欠かせない部品の設計・加工・組立を一貫して手がけています。各特装トラックメーカーの要望に応じたオーダーメイド品のため、月に100個とか多品種少量生産となります。

―まさに筋金入りの「モノづくり企業」ですね。

どこでも作れるモノではないという自負はありますし、だからこそ、お客様に選ばれているのだと思います。私で3代目になるのですが、先々代の時代から、ずっと貫いてきた部分です。特装トラックメーカーとは長いお付き合いを続けていただいています。

―そんな矢口製作所では、アルペンスキー選手の松本達希さんを採用し『デュアルキャリア』を歩んでもらっていますが、そのきっかけは?

とある取引先企業がアスリート社員を雇用しており、オリンピック選手が誕生したと聞きました。私も期間中は応援させてもらいましたし、社内では大いに盛り上がっていたようです。
その後、その企業に誘われる形で当社も『アスナビ』(日本オリンピック委員会[JOC]が実施しているトップアスリートの就職支援ナビゲーションシステム)に登録をおこないました。
でも正直に言うと、最初はあまり積極的ではなかったんです。効果という面で見ても、あまり現実的なイメージはできなかったですから。

―それが、松本選手を採用するまで変化していった要因は?

縁と言ってしまうと身も蓋もないですが、昨年、アスナビの説明会に参加した際、何名かのアスリートの自己PRを聞いた中に松本君がいました。早稲田大学在学中で、所沢キャンパスに夏の拠点を置いていましたから、うちの会社からも近い。それとなく声掛けをして面接へとつながり、互いの意思が一致したため採用となりました。
入社前にシビアな条件の話もできたことは良かったですし、私自身、学生時代は体育会系でしたから「オリンピックに出場したい」と語るアスリートを前にして、気持ちを呼び起こされる部分もあったかも知れません。スキーはバブルの時代に少しやった程度ですけど(笑)
ただ一番大きかったのは、会社の長期経営計画と歩みを等しくできそうだ、という点でしょうか。

―会社の長期経営計画とオリンピックを目指す松本選手が、どうつながるんでしょうか?

当社ではこれまで5年、10年を見据えた経営計画を立てたことはなかったんですね。それが偶然、商工会議所の援助でコンサルタントを紹介されたこともあって、計画づくりに着手することになった。そして、このタイミングで将来に明確な目標を掲げる松本君が加わる――。
これは長期スパンでモノを考えることを周知させる“社員の意識改革”のきっかけになるのでは、とピンと来たんです。

ほぼ半年、出社できない「正社員」の採用――

ほぼ半年、出社できない「正社員」の採用

―現在、松本選手はどんな形態で働いているのでしょうか?

実は今日現在(取材日は11月下旬)、彼は競技シーズンに入っているため、出社はしていません。スキーという競技の特性上、夏と冬で大きく勤務形態が変わるのですが、4~9月の出勤日は原則毎日出社、10~3月は競技に専念してもらい、遠征の合間など、来られる時だけ出社してもらう予定です。

―非常に独特な形態ですね。

そうですね。選考の段階で「競技を継続するために、どんな働き方を希望するのか?」をざっくばらんに聞き、こちらからも、正社員として雇用をおこなう以上「ここまでなら可能だよ」という部分を示しました。
大前提として、松本君は次のオリンピック出場(2022年北京大会)を目指していると。そして冬の競技シーズンは出社することが難しいと。その中で、夏シーズンの出社時間や給与を決め、毎年「どんな大会に出たいか?」などの遠征計画を提出してもらい、費用もサポートする。そうして、一緒に北京大会までを目指していこうという流れになったんです。

―シーズンと一口に言っても、半年を超える場合もある。英断に感じますが。

だからこそシーズンごとに活動計画書を提出してもらうことにしました。納得したうえでなければ遠征費用まで出しません。このような「計画を立てる」というアクションは、松本君にとっても、当社にとってもプラスに働いていますし、私もいろいろと気づかされることが増えましたね。

―そのようなやり取りを経て、彼だけの働き方が生まれたと。

これだけ柔軟にできるのは、中小企業の強みかも知れません。ただ、他の社員に配慮したうえでの決定であるということは、声を大にして言っておきたいです。勤務形態はさておき、仕事をする以上は過度に特別扱いをしては彼自身も働きづらいと思いましたから。
松本君には夏の間、8時に出社してもらい勤務は14時まで。資材の取扱いなどの生産管理や製品・荷物の配送・移動をお願いしています。だいたいデスクワークが3分の1、残りは身体を動かす作業になります。
そして退勤後は、トレーニングを自由にできる時間に充ててもらっています。

まずは50名の社員を“ファン”に――

まずは50名の社員を“ファン”に

―松本さんの“働きぶり”はいかがですか?

もうとにかく真面目で一生懸命。この一言に尽きます。
日報などを通じ、トレーニング内容も報告してもらっているんですが、「えっ、こんなにハードなことをしているの?」と驚くようなメニューの翌日でも、ケロッとした感じで出社してくる。私だったら起き上がれませんよ(笑)
ですが、遅刻なんてただの一度もないですし、誠実に働いている姿は、社員誰もが認めているのではないでしょうか。

―素晴らしい勤務態度ですね。

こちらも「援助してあげたい」という気持ちになれますよね。社員も“ゲスト扱い”ではなく、ちゃんと同僚として彼を見ていると思います。
また、競技シーズンはこれからですが、大会の成績は逐一報告してもらい、全社員に共有しようと思っているんです。日本では露出度の高くないアルペンスキーですし、彼は現在、ナショナルチームなどのトップカテゴリにはいない。メディアを通じて情報を得るのは簡単ではないですから。

―松本選手にとって、いいプレッシャーですね。

松本君には「まずはうちの社員、50名を自分のファンにできるように頑張れ!」と伝えています。矢口製作所の一員として競技を続ける以上、どんな形であれ「社員が憧れる存在」であって欲しいですし、応援されていることを自覚することも、プラスに転がると期待しています。
また、アルペンスキーの中でも彼が挑戦するのは、回転・大回転という“技術系”と呼ばれる領域。矢口製作所も技術を追求する会社ですから、マインドの部分ではシンクロするところも多い気がします。

会社にとって、マイナス面は何一つない――

会社にとって、マイナス面は何一つない

―このような形で『デュアルキャリア』に励むアスリートを受け入れ、どんな感想を持っていますか?

今年4月に入社してもらい、競技シーズンはこれからですからね。まだ総括はできませんが、松本君は社会人1年目、当社も受け入れ1年目ということで試行錯誤は続いていくと思います。
ただ、この時点でも「目標を立てることの重要性」に、私も松本君も気づけました。後は社員にどこまで浸透していってくれるかですね。「松本君も頑張っているから私も頑張ろう」といった具合に。

―今後、どんな相乗効果が生まれてくるかに期待ですね。

そうですね。彼に将来、会社の広告塔を期待するわけではありませんし、「当社が競技を続ける拠り所になれれば」という想いです。
本音を言えば、アスリートを採用したからといって会社の売上が即アップする訳ではありません。
でも現時点で、会社にとってマイナスだったことはただの一瞬もありませんし、応援をすることで当社にも活力が生まれます。

―『デュアルキャリア』に励むアスリートにとって最高の関係性に思えます。

もう一つ彼に伝えていることがあるんです。それは、当社でのセカンドキャリアのことまで今は考えなくていいよということ。まずは一緒に4年後のオリンピックを目指そうと。
もちろん当社で働く中で“モノづくり”に興味を抱いてくれたら嬉しいですし、当社でずっと働きたいと言ってくれたら最高です。ただ現役選手にそこまで決断を急がせるつもりはないですし、あくまでこの瞬間の『デュアルキャリア』を精一杯歩んでもらえたらと思っています。